語源と本質

平田弘史のお父さん物語』を読みました。最初はエッセイ風に日常を描いている漫画なのですが、だんだんと平田弘史の宇宙・宗教観に話題がシフトしていく様が面白いです。日常の生活の中にもその雄大な観点を持ち、一本筋の通った考えをしていることが分かります。近くにいたらきっと難儀なジジイなのでしょうが、哲学を持った生き方というのはやっぱり良いです。
さて、その本の中で平田先生は

働くとは何か?
「人が動く」?何のために!?
生きるため?だれが?
俺がか…そうだと思う…
ならばなぜハタラクとよぶのかな?
端他楽?端楽…
端を楽にさせるためには自分が苦しい…

と、働くということについて思いを馳せています。
実際にはハタラクという言葉は『機楽』が語源で、つまりは「機織をする人を楽にしてあげる」ということらしいです。なんでこんな事を知っているかというと、社内での意識改革ミーティングでこの話が出たから、すなわち「働くの語源は機楽なのだから、働くということの本質はサービスである」とかなんとかまあそんな話が出ていたわけです。
はっきり言ってこの論理には全く納得がいきません
働くことの本質=サービス。これはOKです。
働くという言葉の語源=機楽。これもOK。
しかし、語源=本質という論理、これにはでっかい飛躍が入っているとオレは思うわけです。
物事の本質というものは、それが生まれ出たときから永劫に変わらないというのなら件の論理は正しく、そうでないのならば正しいとは言えない。というところですか。
どうやら『何もかも、この世にあるもので変わらぬものなど無い』と、信じているがために語源=本質という考え方に拒否反応を示すようですね。これも一種の哲学と言えるかと思います。
お、オレにもあるじゃん哲学。やったね。